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自由・平等・友愛、つまり自由・平等・平和じゃないところが肝なのかもね。

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Fraternitéという言葉はかつては「博愛」最近では「友愛」と訳されることが多いですけど、その言葉には「自分の仲間たち」は大事にし、共に支え合うというニュアンスがあります。その「自分の仲間たち」はどの範囲を指すのか、それがもはや人々によってまちまちなのがおそらく問題になっているのかなと。

かつて私は(現実はともあれ)それは広くあまねく人類全員に対するものだと思っていたんですけど、そんな解釈は通用しないのは歴史を振り返ればわかりますよね。

フランスの4年生(日本だと学年的には中2にあたりに相当しますかね)では社会の必修授業で日本でいう「公民」枠で「言論の自由」についての授業があります。これはおそらくかなり前からそうだったのでしょうけど、今回、その社会科教師が授業の教材としてシャルリ・エブドのこの絵を使ったことに端を発して(と言われる…私自身は口実に過ぎないと思いますが)、その教師が18歳のチェチェン出身の青年に斬首されて殺害されるという事件が起きました。

ちなみにその授業で使われたとされるイラストは→これです(フィガロ紙のツイートから)。

左の絵はおそらく、この預言者ムハンマド誕生のときの話にかけたのでしょう(生まれたときに星が現れたということらしいので)。ただ、そのお下品な風刺画を中学生にわかるよう解説して考えさせるのは、宗教関係なく私にはハードル高いなと思えたのは事実です。きっとこれ…同性愛者差別に対する風刺でもあるわけでしょ? それが通じるのかとかね。そして右の絵、つまり「全て許される」という絵とセットで出したということは、「宗教とはどんなに(神をおちょくるような)罪深い人でも神は許してくださるってものではないんですか?イスラム教は違うの?」というおちょくり(「何をしても「神の名だろうと」「言論の自由のもとだろうと」許されるはず」という皮肉も)を含んでて高度です。

「言論の自由」について授業をする際に、公教育省からいまやシャルリ・エブド事件については言及すること、ただしそのために使用する資料は教師の裁量に任せる、という話になっているようなのですが(つまりその二つの絵を授業で使うのはマストではない)、どうしてもあれを見せて学校で教えないといけないものなのかという問題もあるにはあります。そこは教師の判断に任せられていたわけです。

私はちょうど同世代の子どもの親でもあるので、「中学生の理解力を超えた高度な風刺画」かなという意味で疑問ではあったのですが、もしかしたらうちの子が幼い、考え足らずなだけなのかもしれないので、フランスの中学生の「大人」度合いはわかりません。

それに、それが自己検閲とか言論の自由に対する萎縮になるといえばそこまでの話ですが、教育の場とメディアの場の違いもあるじゃないですか? プラットフォームの違いという話ですよ(公教育の場ってなんでもかんでもとりあげるものなの?ある程度は精査するってもんじゃない?ってことですね。これも私の主観です。日本の場合は教科書検定とかががっつりあるので余計にそう思うのかもしれません)。

そのうえ私が気になったのは、「どんな理由であっても、どんな発言をされたとしても、それに対する反応が文字通りの《ぶっ殺す》なんていうのはとんでもなく間違っていること。そして、言論には暴力で返すのではなく、言論で返すのがフランス社会のありかたである」というルールは明確になっていたのかな?という点だったのです。シャルリ・エブド事件の問題の肝はそこなのだから、そこまで子どもは知る場があって教育として初めて成り立つのではないかと。

日本やそこそこの近代民主主義国家といわれる国の場合だと「どんな理由でも殺人や暴力はダメ!以上おしまい。これは殺人事件なんだから国の刑法の枠で判断します」で済むと思うんです。20年前の「テロとの戦い」というのも、根本の根本にあったのは一応そういう理屈でしたし、それはそれで賛否両論あったとはいえ「自分に対して肉体的危害を加えてもいない人に対して、つまり現行の法律の定義で正当防衛にすらならないのに、意見の違いを理由に相手を殺すな、暴行するな」っていう建前はありました。それが国家レベルの話になると「自分」ではなく「自国民」になるわけですけど。

ところがどんどん話は「言論の自由には宗教の侮辱も含む」とか、「いや言論の自由があっても侮辱しちゃいかんだろ」という方向に行き、果てはニースやリヨンではカトリック教会やギリシャ教会にいた人達が殺されたり大けがを負わされたりして「宗教戦争」にまで話は逸れてしまいました。

この論議でよく言われたこととして、

殺人はよくないけどホニャララ(以下略)。

でも、そのホニャララに該当するのが今回は「自分でもない、家族や親戚でもない、自分が好きな大昔の預言者がおちょくられたイラストを見せられて傷ついた」なんですよ。でもその先の何が問題になっているんですか?って話ですよ。

心が傷ついたら他人の首を切っていい、ぶっ殺してもいいという言い訳が正当化できるとか擁護できるという理屈は近代民主主義国家としては通用しません。その辺のことをがっつり言えたのはさすが女性ジャーナリストでしたね。フランス語が分かる方はご参考にしてください。(フランスで女性は日本に劣らず、下手したら日本よりもおちょくられ、粗雑に扱われがちとも言えるので、ある意味そこでジャーナリストやるような女性は肝が据わってるんです)

私はこれを聞きながら、少し前の日赤献血の宇崎ちゃんポスターの「外国ではこんなもの外に出してよいとされる絵じゃない」とかいってた幼稚さ、浅はかさはなんだったんだって思ったんですけど、そこまで言うと話がそれるので控えておきます。

さて、話を戻しますが、なぜ政府なりマクロン大統領は「暴力は正当化されない」と当初明確にしなかったんだろう?と私は思いました。でも結局、それは共和国の理念が「自由・平等・平和」ではなく「自由・平等・友愛」だからなのではないでしょうか。友愛って定義を見ても元はといえば自分と同類の人々に対する優しさや助け合いですしね。

フランスは自由を勝ち取るのに結構苦労している国です。そしてそのためなら暴力も辞さなかった。フランス革命でもそうですし、ナチス占領下・同調時代のレジスタンス運動などは公教育ではフランスの理念を築き、仲間たちを横暴から守った勇気ある素晴らしい行動としてみなされています。

公教育でフランス革命(自由のためなら暴力も可)を正当化してるから、「理由があれば暴力を振るってもいい」とするイスラム教徒でも過激な人々を「暴力は絶対ダメ」、つまり「平和」という理屈で納得させることが難しくなっている面もあります。

これがもう少しずる賢いやり方のできる政権だったならば、そうした言論の自由や宗教の自由の論争の泥沼に陥らないように、言語道断の治安問題として押し切っちゃう手もあったのでしょう。でも政権も、そしてなによりメディアも、あれは殺人・暴行事件なのに、宗教侮辱の権利とか言論の自由を持ち出して殺人や暴力を擁護する人達と同じ土俵にあがってしまった。日本のメディアもしかりではないでしょうか。

やっとマクロン大統領は、昨日のアルジャジーラのインタビューで、「預言者のイラストにショックを受ける気持ちはわかりますがだからといって暴力は正当化できません」と言ったそうです。私に言わせれば「ショックを受ける気持ちはわかりますが」なんて枕詞も要らないし、「どんな理由であれ」で充分だとは思いますけどね。

たとえばずっと黄色いベスト運動に対しては

「デモで意見を表明する権利はありますが、暴力行為や破壊行為は一切認めません」って前フィリップ内閣は言ってきました(ちなみに今年7月からカステックス内閣です)。当時のカスタネール内務大臣はちょっと話の逸れた隙のあるツイートとかしていましたけど、政府の見解、首相の見解としてはこの「暴力行為や破壊行為は一切認めない」という部分を「結論にもってきて」、国会なり公式アカウントなりで強調していたのは、いまにしてみると明確でうまい落とし所だったのかなと思います。

マクロン大統領もたとえば夏のBLM運動に起因する銅像引き抜き騒動に対しては「フランスは銅像を倒さない」(つまり歴史の一部を残さなければならないというのはもとより、公共物は破壊しない)と言っていました。なのになぜ、教師殺害事件が起きた時点で「暴力や破壊行為は一切認めない」と強調せずに、言論の自由に重点を置いてしまったのでしょう。確かにその数週間前に「特定のコミュニティのルールよりも共和国の理念やルールのほうが優先される」という文脈でフランスに合ったイスラム教改革を訴えたということはありました。でも、暴力を振るう人っていうのは、宗教やコミュニティ関係なくたいていの場合「相応の理由があったから」って言い訳するんですよ。なのになぜ暴力を擁護する人達と同じ土俵に上がってしまうようなことをしたんだろう。

だって今のダルマナン内務大臣なんて教師殺害事件を受けて「スーパーマーケット特定のコミュニティ専用の売り場があるのを見てショックを受けた(ハラールやコーシャーコーナーのこと)」とか言い出してたんですよ。それもともと売り主や客の便宜上の問題でしょって思いましたし、殺人テロ事件なのにどこまで話が逸れるんだよってことなんですけどね、そのうち修正されていくのではないでしょうか。

追記:

いまだにTwitterの通知に私はフィリップ前首相(現ル・アーヴル市長)のツイートを設定しています。マクロン大統領が切々とアラビア語でアルジャジーラのインタビューの抜粋をツイートするなか、ひっさしぶりにフィリップさんのツイート(しかもただのリツイート)が入ってて吹き出してしまいました。

リーグ2の地元ル・アーヴルのチームが勝ったんでしょうか。そういえば、フィリップさんが夏に首相を「辞めて」市長にいわば復帰した最初の表立った仕事が、ル・アーヴルのスタジアムで前回のロックダウン解除後フランスで初めて観客を入れて、PSGを迎えて試合をしたときにインタビューに答えたというものだったのですが、ごきげんで少しサッカーの解説をしていた事を思い出しました。そのまま新しい生活様式のもと暮らしていければよかったのにね。ステイホーム・アゲイン。平常心と連帯心はだいじ。

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Rie K. Matsunaga

松永りえ/本業は自宅警備員ですが、ときどき在宅で書籍翻訳やってます。https://linktr.ee/rkmatsunaga